鮎について。

鮎ってどんな魚?

日本人が愛する優美な淡水魚・鮎は、夏を告げる旬の魚で、柳の葉のようなスリムな体をしており、鮎の身からはスイカの匂いが漂うために「香魚」と呼ばれることもあります。

北海道から沖縄まで生息しており、澄んだ清流を好みます。また、鮎は「年魚」とも呼ばれ、1年で命を閉じます。鮎は濁った水中では生きられないため、鮎が棲むということは、ある面水の美しさのバロメーターにもなります。

産卵は秋に行われ、卵は二週間程で孵化し、海に下って成長した後に生まれた川に戻ってきて産卵を行い、儚い生涯を終えるのです。

鮎に関する豆知識

鮎は日本で古来から愛されてきた魚であり、神功皇后が鮎釣りを楽しんだり、釣りで占いをした、という故事もあります。

また古くは「年魚」と書き、寿命が一年で終わるためだと言われています。

万葉集でも鮎を題材にした歌が詠まれ、上品な香りと繊細な味わいや内蔵のほろ苦さが日本人に好まれ、愛され続けている魚です。
食通として有名な北大路魯山人も鮎の繊細な味を愛し、由良川の上流で獲れた鮎をわざわざ鉄道で生きたまま運ばせた、という逸話もあります。

そして一番美味しい鮎の食し方は「はらわたを抜かず、塩焼きにして、火傷するほど熱いものに蓼酢を絞ってかぶりつくこと」と魯山人は言い残しています。

ちなみに俳句 の季語 として「鮎」「鵜飼」はともに夏をあらわすが、春には「若鮎」、秋は「落ち鮎」、冬の季語は「氷魚(ひお、ひうお)」と、四季折々の季語に使用されています。

最後に、鮎は魚偏に占うと書きます。諸説あるようですが、神武天皇が高倉山で敵に包囲されたとき、「酒を入れた瓶を丹生川に沈め、魚が浮いてくれば大和国を治めることができる」という占いに従われたそうです。すると本当に魚が浮かび、その魚がアユであったとか。

また、冒頭でも少し触れましたが、神功皇后が朝鮮出兵の際、神に祈念しながら川に糸を垂れたところ、鮎が釣れ、皇后は無事に航海できた。などなど、鮎という魚には縁起の良い逸話が残されています。そのため、私たち全鮎では、鮎のことを「笑顔を呼ぶ鮎(きちをよぶさかな)」と謳い、大切に育てています。

養殖の歴史

 明治42年(1909)石川千代松博士が、琵琶湖の小鮎にエサを与えて育てると大きくなる事を実証したことが、はじまりとされています。

 琵琶湖の鮎は「小鮎」と呼ばれ、一般的に大きくなりません。このため当時は河川の鮎と琵琶湖の鮎とは別物と考えられていました。これに対し博士は珪藻や藍藻などの鮎の餌が少ないのではと考え、大正2年に琵琶湖の鮎を東京の多摩川へ放流し秋にはりっぱに育ちました。琵琶湖の「小鮎」でもエサを与えることができれば大きくなることがわかり、その後の放流事業また地中養殖事業発展の基となりました。
また海産稚鮎については、昭和4年(1929)に神奈川県の海産稚鮎を用いて、農林水産試験場の中野宗治技師が池中養殖に成功いたしました。

 続いて、各地の水産試験場が、琵琶湖産稚鮎および海産稚鮎を用いた養殖の試験を行い、今日に至る養殖の礎を築かれていきました。

 時は流れ、1960年代に養殖業の経営体が徐々に増え始め、1970~1990年代にかけ飛躍的に増加。淡水魚の主要養殖魚の中では後発魚種であったが、高度経済成長期の需要増の波に乗り、急激に生産量が伸びていきました。
この頃になると、養殖池もコンクリートで整備し、用水も伏流水が多く使われ、ポンプなどで池の中でも川のように流れを作り出すことが出来るようになる。それに伴い生産量も着実に増え、内水面における大きな産業にまで成長いたしました。

 その後、食の多様化また魚食文化離れなどもあり一時よりは大きく生産量が減ったとはいえ、河川文化を伝える旬の魚として和食だけでなく洋食、中華またバーベキューなどの食材として多岐にわたり国内だけでなく海外でも使われています。

 今日では、全国で琵琶湖産稚鮎、海産稚鮎、人工産稚鮎を中心に養殖が行われ、安心・安全で美味しい鮎を食卓にお届けするために日々精進し奮闘しております。

※資料提供/湊文社「アクアネット」編集部:池田成己
※参考資料/緑書房「月刊養殖」

鮎の各部位名称

鮎イラスト

食卓にのぼるまで


  1. 1 稚魚の導入

  2. 2 給餌

  3. 3 出荷取揚・活魚計量

  4. 4 出荷風景

  5. 5 出荷姿

  6. 6 食卓風景